正義だけでは救えない?ただの社会貢献が社会問題を解決できないわけ

正義とは自己表現でしかないのか?

今日は、「社会貢献が社会問題を解決できないわけ」の事例を紹介します。

以前から、デザインされていない(ロジカルでない)社会貢献活動は、インパクトを出せないどころか、新しい社会問題を生むことがあると言ってきました。

なぜ、正義だけでは救えないのか?なぜ、社会貢献が社会問題を生むのか?そんな所のオピニオンを改めてまとめてみます。

CSRにおける正義とは何か

国際協力の分野でよく聞く話で、スラムにあるゴミ山をボランティアが「よかれと思って」片付けてしまうと、ゴミを拾ってリサイクル業を営んでいる人たちの仕事を奪う結果となるそうです。善意で行ったはずの行動が、「雇用」という重要な生きる術を、略奪してしまう結果をもたらすのです。
健常者が「よかれと思って」、「障害者」ではなく「障がい者」ということばを使うことについて、当の障害者のなかには「気持ちわるい配慮」として違和感を覚える人もいる、という話も聞いたことがあります。
(沈黙は美徳ではない—沈黙という暴力より)

友人のイケダハヤトさんの記事ですが、僕もよく聞く話しだなぁと思ったわけです。

もう一つ、よく出るたとえ話(実際そうなんだけど)で、被災地支援の話題があります。「被災地に本を送って娯楽を提供しよう!」となるのは、とてもすばらしいことです。

でも、地方の街でも、本屋はほぼ必ずあります。地元の本屋さんは大打撃です。同じ本が無料か有料かだったら、無料がいいに決まっています。

このロジックでいくと、地元の洋服屋さんとかもそうですね。そうやって、誰かのハッピーのために取った行動が、地域経済など、他の誰かの損失につながることもあってことです。

以下の例も実際あるそうです。

ボランティアもそう。点訳ボラ団体が行政から頼まれ、無料で点訳。しかし、実は障害のある人たちが生業として点訳をしている。障害のある人たちが通う作業所の仕事を奪ったことを知らなければならない。行政もボラに無償仕事を簡単に依頼するのは問題。
(当Facebookページへのコメントより)

“よかれと思って”の罠

配慮すること。これはCSRにおいてとても重要な考え方です。

でも、上記のように、スラムの例、障がい者の例、被災地の本屋の例、こういった事例の場合、誰かがハッピーになった反面、他の誰かの“困った”を増やしてしまうことになってしまうのです。

社会全体としてみれば、ハッピーの総量は、もしかしたら減ってしまっているのかもしれません。

こういう状況があるのに、それでも「配慮」という名の正義の元、社会貢献活動等が行われているのもまた事実なんですよね。

お断りしておきますけど、これらの状況を「何もしない言い訳」にしてはいけないと思ってます。僕が言いたいのは、周辺視野を広げていきましょうということです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

社会問題は、何か特定の解決方法のみで解消されることはありません。利権や政治・文化など様々な要素が複雑になり存在していることがほとんど。

環境問題は政治問題だという人もいますが、その通りで、CO2だけ減らせばいいってわけじゃない。今後も継続的にCO2を抑えるための制度・規制も必要です。

あなたも胸に手を当てて思い返して下さい。

御社の行っているCSR活動は、社会全体のハッピーの総和を増やす活動になっていますか?



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